大分市石炭産業科学館

石炭産業の歴史
1889年(明治22年) 團琢磨が事務長に就任
大学時代の團琢磨
 團琢磨は「三池炭鉱育ての親」と言われた人です。 琢磨は安政5年(1858)8月1日福岡藩士の四男として生まれました。明治3年(1870)年福岡藩主團尚静の養子に迎えられ、その1年後明治新政府の留学生として岩倉使節団に同行しアメリカに渡ります。明治8年(1875)、マサチューセッツ工科大学に合格し鉱山学を学びました。そして、明治11年(1878)学士号を得て同年日本へ帰国します。
 写真は大学時代の琢磨と大学の様子です。
大阪専門学校時代の團琢磨
 帰国後、琢磨は留学で学んだことが生かせず、大阪や東京で教師として働きます。帰国から6年後の明治17年(1884)、ついに国の工部省鉱山課に採用され、同年5月に三池鉱山局勤務を命じられ三池に赴任します。琢磨は次の主力坑として期待される勝立坑の開発責任者として能力を発揮します。
 写真は大阪専門学校時代の琢磨(写真中央)です。
明治時代の勝立坑
 勝立坑はわき水がとても多いという問題を抱えていましたが、明治政府は勝立坑の開発はとても重要であると考え、琢磨を欧米の炭鉱視察に派遣します。琢磨は視察の中で、勝立坑の排水にはイギリス製のデビーポンプが最適と判断し購入のため奔走している最中、三池炭鉱が三井に払い下げられるという事態に直面しました。海外視察から帰国後、琢磨は直ちに政府に対して身上伺いを出します。しかし当時の大蔵大臣が「三井の落札価格はお前を含めたものであり、すでにお前は三井に売ったものだ」と説得したと言われています。
 写真は明治時代の勝立坑です。
勝立坑のデビーポンプ設置工事
 こうして團琢磨の三井入りが実現し、琢磨は再び三池炭礦社の事務長として三池に赴任しました。その後まもなく勝立坑が自然災害で水没するという事態となりましたが、琢磨の進退をかけた説得により三井はデビーポンプを購入し、排水はもちろん勝立坑の開発も一気に進み、三池の出炭量を大きく伸ばしました。
 写真は勝立坑のデビーポンプ据え付け工事の様子です。

参考資料 團琢磨の生涯、男たちの世紀
写真 團家アルバムより

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